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大津城(大津市)本丸

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写真: 大津城(大津市)本丸

写真: 琵琶湖疏水前(大津市) 写真: 大津城(大津市)本丸

去年来たとき城跡=市街地は廻っているのでコレダケです(・ω<)
降車ついで(°ω°)



16.04.13.mixiアルバム「大津城(大津市)」記事コピペ――
16.04.12.
築城年、天正14(1586)年
築城主、浅野長吉
城主、浅野長吉、増田長盛、新庄直頼、京極高次
廃城年、慶長6(1601)年

天正14(1586)年、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長吉へ新城建築を命じた。坂本城の廃材を用いたという。
城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、文禄4(1595)年、京極高次が6万石で入城。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦。
高次は東軍へ属し大津城に籠城。しかし、大津城は琵琶湖の水運流通に主眼を置いており、攻城戦に不利であった(籠城には不向きだった)。
9月7日、毛利元康(元就8男)・立花宗茂ら西軍1万5000が城を囲む。これに先立ち、京極軍3000は12時間かけて城下を焼き払い、町を荒野としていた。
13日、京極軍は赤尾伊豆守、山田大炊らが奮戦して持ち堪えていたが、長等山から大砲による砲撃がはじまる。砲弾は天守その他城郭をつぎつぎと破壊、これに動揺した京極軍の間隙をついて、立花軍は二の丸まで占領した。
敗死濃厚な戦況に故秀吉正室 北政所は、側近孝蔵主と高野山の木食応其に仲介させ講和を成立させる。
14日、降伏開城。
京極高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に入った。
大津城合戦は東軍の敗戦となったが、西軍1万5000を大津城に釘付けにした功績は絶大である。徳川家康は高次を還俗させ、若狭小浜藩8万2000石を与えた。
高次が若狭へ移ってまもなく、家康は大津城を廃城とし、すぐ近くの膳所崎に新しく城を築いた。これが膳所城。大津城合戦で破壊からまぬがれた資材が膳所城および彦根城の築城に用いられている。


近江国巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1uJTVD00xZNi_fLvLou46rdrv0W0&usp=sharing

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