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12.04.18.妙厳寺 豊川稲荷東京別院(港区元赤坂)大岡廟

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Photos: 12.04.18.妙厳寺 豊川稲荷東京別院(港区元赤坂)大岡廟

Photos: 12.04.18.妙厳寺 豊川稲荷東京別院(港区元赤坂)大岡廟 Photos: 12.04.18.妙厳寺 豊川稲荷東京別院(港区元赤坂)

mixiアルバム記事コピペ――
2012年04月18日 19:54

●大岡越前守忠相――
おおおか ただすけ。
江戸時代中期の幕臣・大名。
大岡忠世家の当主、西大平藩初代藩主。
生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守 大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。
大岡忠房家の4代当主で、9代 家重の側用人として幕政においても活躍した大岡忠光(後 岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼(よしみ)を通じている。

延宝5(1677)年、1700石の旗本 大岡忠高 四男として生まれる。
貞享3(1686)年、大岡忠真養子。
貞享4(1687)年、5代綱吉に初御目見。
元禄9(1696)年、従兄にあたる大岡忠英の事件に連座して閉門処置となる。翌年赦免。
元禄13(1700)年、養父病死。家督相続。
宝永元(1704)年、書院番頭・大久保豊前守忠庸組から、徒頭へ。
在職中の諱は忠相。
市十郎から忠右衛門に改称する。
宝永4(170)年、使番。
宝永5(1708)年、目付。
正徳2(1712)年、山田奉行(伊勢奉行)。
佐野直行の跡役で、相役は渡辺輝。
従五位下 能登守に叙任。
正徳6(1716)年、山田奉行御役御免。普請奉行に。

享保2(1717)年、江戸南町奉行。松野助義の跡役で、相役の北町奉行は中山時春、中町奉行は坪内定鑑。
越前守に転任。
吉宗、幕政改革に着手。
忠相は諸改革のうち、町奉行として江戸の都市政策に携わる。評定所一座にも加わり、司法にも携わる。
奉行所体制の機構改革が行われ、中町奉行廃止、両町奉行所の支配領域が拡大、町奉行の権限が強化されていった。
享保3(1718)年、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、町火消組合創設。
享保4(1719)年、本所奉行廃止。
享保5(1720)年、防火負担の軽減を図り、町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成。瓦葺屋根や土蔵など、防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立。
享保6(1721)年、町代の廃止、町名主の減員など、町政改革。
享保7(1722)年、直接訴願のため設置された目安箱に、町医師小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられる。
小石川薬園内に小石川養生所を設置。
与力 加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモ(薩摩芋)の栽培を助成。
吉宗が主導した米価対策では、米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。
享保8(1723)年、相役 中山時春辞任、跡役は諏訪頼篤。
享保10(1725)年、石高2000石を加増され3920石。
風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化。

元文元(1736)年、寺社奉行。石高2,000石加増。
寛延元(1748)年、奏者番兼任。
同年、石高4,000石加増。三河国西大平(現岡崎市)1万石を領し、正式に大名となる。
町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみ。
寛延4(1751)年6月、大御所吉宗が死去。葬儀担当に加わっている。
この頃には忠相自身も体調が優れず、“忠相日記”の記述も途絶えている。吉宗の葬儀が最後の公務となった。
同年11月には寺社奉行辞職、自宅療養するも12月、死去。享年75。
大正元(1912)年、贈従四位。


奉行として心構えを和歌にして残しています。
松が枝(え)の 直ぐなる心 保ちたし
柳の糸の なべて世の中――
世の中の多くの人が柳のように流されて生きているが、私は松のように揺らぐことのない心を持って生きたい。


江戸市中では、「油断ならぬもの 大岡越前守と 盗人」と評されていました。


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2014年08月12日 10:37
「豊川稲荷(愛知県豊川市)」
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000091005696&owner_id=32815602


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mixiアルバム「椙森神社/出世稲荷・町火消 (日本橋堀留町)」記事コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000080123951&owner_id=32815602
2013年02月05日 11:56

町火消――
「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」
とは、儒学者 荻生徂徠(アメブロ参照)。「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」との進言を受け、時の町奉行 大岡越前が出した奉行令。この町触れによって消火に当たった者を店火消と呼んでいたが、有象無象の集まりだったため統制がなく、火災現場へ駆けつけてもただ右往左往するばかりだったという。しかし、この制度が町火消誕生の芽生えとなる。
大岡越前は、享保3(1718)年に町火消をつくり、享保5(1720)年にいろは四十八組を編成、本格的な町火消制度を発足させた。
嘉永4(1851)年頃の江戸町火消配置は、いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、「へ」・「ら」・「ひ」・「ん」の四文字組は「百」「千」「万」「本」に変えられた。「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いという理由だ。
隅田川の東、本所・深川には、区域を三つに分けて16組の火消組を置いた。
町火消に要する費用は町費をもって賄わせた。
町火消は組の名誉をかけて働くようになり、纏をかかげて功を競った。はじめは出動範囲も町屋だけに限られ、武家屋敷の火災に纏をあげることはできなかったが、徐々にその功績が認められ、武家屋敷の火災はもちろん、延享4(1747)年には江戸城二之丸の火災にも出場し、定火消や大名火消にも劣らぬ実力を示し、町火消全盛時代を築いた。

享保7(1722)年の一番組 は組――
大傳馬町、亀井町、難波町、堺町、小網町、小舟町、油町、堀江町、小傳馬町、鉄砲町、高砂町、富沢町、長谷川町。
人足592名。


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