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13.03.23.赤山陣屋跡(川口市)二郭北西・外堀

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Photos: 13.03.23.赤山陣屋跡(川口市)二郭北西・外堀

Photos: 赤山陣屋跡(川口市)二郭北西 Photos: 西福寺(川口市)より西向き、赤山陣屋外堀跡・(前方)出丸

赤山陣屋敷址(川口市赤山)
mixiアルバム「赤山陣屋敷址・伊奈氏(川口市赤山)」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000081763800&owner_id=32815602
2013年03月24日 00:13
・13.03.23.
川口市として、史跡の正式名称が定まっていない。所によりバラバラ。
まあ、城ではなかったのだから、某はコチラを採用する。
説明と状況、様子も写真を参照していただくとして。
特に述べることはない。


●陣屋――
じんや。
江戸時代、大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷。基本的には、3万石以下の城を持たない大名が陣屋を持つ。
天領の代官住居および役所が置かれた建物。
上級旗本が知行地に構えた屋敷。
大藩家老が所領地に構えた政庁の入る屋敷。
飛地を所領に持つ大名が、現地の出張所として設けた屋敷。
箱館奉行所や長崎奉行所なども陣屋として扱われることがある。

陣屋に藩庁を置く大名は、無城大名または陣屋大名と区別されていたようだ。また、かりに城主格大名へ昇格(加増)しても、国許の陣屋を城に建て直すことは許されなかった。城門のみ許容された。
陣屋は、城郭に比べて簡素に建築されており、行政・居住の機能のみを備える造りがほとんどだった。
塀で囲った敷地の内外に、長屋または小屋(地方によって呼び名はいろいろ)といった家臣が住まう屋敷、中央となる役所、奥向き、そして本陣が造られた。



コメント欄―― (よそのアルバムに貼付した伊奈氏記事も2点付加)
2013年03月24日 00:18

※関東郡代――
かんとうぐんだい。江戸時代に4ヶ所設置された郡代のひとつ。
従来、関東郡代と考えられていた関東代官伊奈氏は、関八州の幕府直轄領約30万石を管轄した。
行政・裁判・年貢徴収なども取り仕切り、警察権も統括していた。また、将軍が鷹狩をするための鷹場の管理も担った。
はじめ、陣屋は武蔵国小室(現埼玉県北足立郡伊奈町)の小室陣屋にあり、のちの寛永6(1629)年、同国赤山(現埼玉県川口市)の赤山陣屋へ移された。また、武蔵国小菅(現東京都葛飾区小菅)にも陣屋があり、家臣の代官を配置していた。
家康は関東入府の際、伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が関東代官の地位を世襲した。
元禄5(1692)年、飛騨高山藩領地が天領となった際には、6代忠篤が飛騨郡代も一時的に兼務した。
享保年間、鷹場支配と公金貸付を中心とした「掛御用向」の地位にも就いた。
享保18(1733)年、8代忠逵は勘定吟味役を兼任。本来、関東代官は勘定奉行の支配下にあったが、老中の直属支配下に入ることになった。
天明5(1785)年、12代忠尊は奥向御用兼帯となる。
天明7(1787)年、小姓組番頭格となる。
(伊奈氏は、他の郡代・代官とは別格の地位を築いた。伊奈氏の自称「関東郡代」も、こうした特殊な地位が背景にあったと考えられている。)
安永7(1778)年、跡目争い、御家騒動が発生。
寛政4(1792)年3月、伊奈忠尊は関東代官を罷免、改易となった。

※かつては、伊奈氏によって世襲された関八州の幕府直轄領の民治を司る地方官であると考えられていた。しかし、近年、
伊奈氏が実際に任命されていたのは「関東代官」――で、
江戸幕府における関東郡代の職制は伊奈氏改易に対応して設置されたもの――で、
伊奈氏の「関東郡代」は実際には3代忠治以後の伊奈氏宗家当主が私称していたもの――に過ぎず、
伊奈宗家断絶後の再建運動の過程で、あたかも伊奈氏断絶以前から関東郡代の職制が存在したかのように創作された――可能性が高いとする見方が有力視されている。

伊奈氏以降は認識せず。調査せず。



●伊奈氏――
清和源氏義国流足利氏系(諸説)。
家紋は左頭二つ巴、または剣梅鉢。
足利氏支流の戸崎氏の分家といわれる。初め荒川氏を称していた。
荒川易氏が当主の時、9代義尚(母は日野富子)から信濃国伊那郡の一部を与えられる。
易氏の孫 易次が伊奈を姓とし熊蔵と号した。
易次は叔父 易正との所領争いに敗れ、居城を奪われた。そして、三河国に移り松平氏の家臣となった。
その子 伊奈熊蔵忠基は、松平広忠・徳川家康父子に仕え、三河国小島城(現愛知県西尾市)を居城とした。
永禄6(1563)年、忠基の子 忠家は、三河一向一揆で一揆方に与し、のちに出奔。長篠の合戦後に帰参。
(忠基嫡男 貞政の系統は昭綱の代に断絶。次男 忠家の系統が宗家として徳川家に仕えた。)
天正3(1575)年、信康自刃で再び出奔する。その子 熊蔵忠次(天文19(1550)年~慶長15(1610)年)もその都度父に従った。
天正10(1582)年、本能寺の変。堺見物中だった家康を本国へと脱出させた伊賀越えに、小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父忠家の旧領 小島を与えられた。
三遠奉行のひとりとして、検地などの代官であった吉忠の与力となる。後に吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になった。
関東移封後、武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室)および鴻巣に1万石を与えられる。これより、関東代官頭として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の近習として参政、領国支配に貢献した。徳川氏直轄領の内、100万石の実質的な行政を任される。忠次は家康の期待に応え、関東各地で伝馬制度、検地・新田開発、治水工事、民政、農政に尽力する。
利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与した業績は計り知れない。関東諸国の水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民はもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われたという。関東各地に残る備前渠・備前堤・備前堀と呼ばれる諸々はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。また、伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。ここ埼玉県北足立郡「伊奈町」の町名の由来は――
(伊奈町音頭は「ハァ~伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出されるとか。)

当主の通称となる「半左衛門」は、忠次から聞かれる。

・忠次嫡男 忠政は、父とともに奉行職につき、諸々の普請事業に務めた。合戦にも参陣しており、小荷駄奉行など後衛がほとんどだった(父忠次は秀吉の覚えもめでたかった)。
大坂冬の陣において、外堀埋め立ての普請奉行を務めている。夏の陣では首級30(7という説も)を挙げたという。
元和4(1618)年、34歳でこの世を去る。
・忠政嫡男、3代忠勝は父の早逝により8歳で家督を継いだ。しかしその翌年、夭折。
武蔵国小室藩は無嗣改易となる。
だが、祖父 忠次の功績甚大にて、家名断絶も惜しまれ、弟 忠隆に1186石の所領(小室)が与えられ、旗本として嫡流は存続した。
・関東代官職は忠次次男(忠政弟) 忠治が引き継いだ。すでに勘定方として幕府に出仕しており、武蔵国赤山(現 川口市赤山)に7000石を領している。兄(父)の配下のほとんどを召し抱えたという。
関八州の治水工事のほとんどが忠治の功績で、忠治を祀った“伊奈神社”がある。福岡堰(現 茨城県つくばみらい市北山)の北東側(住所はつくば市真瀬)にある。また、合併して無くなってしまったが、旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来していた(現つくばみらい市)。


※忠治 一部――
・中山道移設・大宮宿の形成。寛永5(1628)年、氷川参道西側に街道を付け替え、宿や家を街道沿いに移転、現在に至る大宮の町の基を創る(さいたま市大宮区(旧埼玉県大宮市))。
・荒川瀬替え。寛永6(1629)年、熊谷市~比企郡川島町(武蔵国久下~川島)。
・見沼溜井、八丁堤。寛永6(1629)、さいたま市・川口市。
・鬼怒川・小貝川分流。寛永6(1629)年~寛永7(1630)年。
・新綾瀬川開削。寛永7(1630)年、足立区南花畑~葛飾区小菅(武蔵国内匠新田~小菅)。
・江戸川開削。寛永12(1635)年、千葉県野田市(旧東葛飾郡関宿町)~埼玉県北葛飾郡松伏町(下総国関宿~金杉)。
・北河原用水。正保元(1644)年、埼玉県行田市(武蔵国北河原)。
※忠治嫡男 忠克 一部――
・玉川上水。承応元年~3(1652~1654)年、羽村市~新宿区四谷(武蔵国羽村~四谷大木戸)。
・琵琶溜井。万治年間(1658~1661)、埼玉県幸手市(武蔵国幸手)。
・葛西用水(幸手用水)。万治3(1660)年、埼玉県羽生市~越谷市~墨田区(武蔵国本川俣~江戸本所)
・新利根川開削。寛文2(1662)年、茨城県北相馬郡利根町(常陸国布川押付~霞ケ浦)。
江戸初期における利根川東遷事業が、はじめの完成を見たのは忠克の代。
※7代忠順 一部――
・深川永代橋架橋工事。元禄11(1698) 年、中央区・江東区。(5代綱吉50歳の誕生日を記念して架けられた。)
・深川埋め立て工事。元禄13(1700) 年、江東区。
・江戸本所堤防修築。宝永元(1704)年、墨田区。
・浅草川治水工事。宝永2(1705)年、台東区。
・宝永の大噴火。宝永4(1707) 年、富士山噴火。


11代忠敬は嗣子が生まれなかったため、板倉勝澄の11男を娘 美喜の婿として迎えた。
明和6(1769)年、忠敬に実子 忠善が生まれる。
安永7(1778)年、忠敬が没すると娘婿 忠尊(12代)が家督を継いだ。忠尊もまた、この時点では実子がなかったため忠善を養子にした。
天明7(1787)年5月、赤坂にある20軒の米問屋襲撃から始まった江戸の打ちこわしは、本来なら江戸町奉行の管轄だが手に負えなかったため、関東代官である忠尊が各地から買い集めた米を江戸市中に大放出し、事態を収拾させた。
天明の大飢饉から全国的に凶作で、買い付けは大変だったはずだがそれを集められた伊奈氏の実力は――。
――、側室に実子が誕生すると内紛が起こる。忠善が比叡山に出奔するなど家中が乱れた。
――、幕府から無利子で金を借りて運用する貸付金役所を経営していたが、江戸の打ちこわしの時の米の買い付けなどで、期限内に15000両を返せなくなる。延納を願い出たが拒否され、これを不服とした忠尊と幕閣との間に確執が生じた。これに危機感を募らせた伊奈氏譜代54名の家臣は、連判状を出して諌め、忠善への家督移譲を迫る。だが、忠尊は首謀者を見つけ出し、処罰した。
――、家臣51名は事の経緯を記した口上書を公儀へ提出。
寛政4(1792)年、勤務中の不行跡、家中不取締りの罪で改易、所領没収、永蟄居、赤山陣屋破却。
――、忠善は(大和郡山藩 柳沢保光へ預け)郡山城に蟄居。この重い処分は、伊奈氏の権勢が増大していく一方なことを快く思わない幕閣の影響だとされた。
のちに領地であった21ヶ村から赦免の願書が提出されたが、採用されなかった。
寛政6(1794)年、忠尊は預かり先 南部信房の屋敷で31歳で没した。



※見沼――
縄文時代までは、古芝川が大宮台地を浸食した谷に奥東京湾が入り込んでいた。このため、この地の周辺には貝塚が点在している。奥東京湾は弥生時代に入ると海岸線が海退し、見沼・入江沼・鳩沼・鶴巻沼など多数の沼が繋がる広大な沼沢地(しょうたくち)となった。見沼は三沼・箕沼・御沼とも表され、Y字型3方向に湾曲して伸び、岬や入江も多い複雑な地形であった。氷川神社はこの沼の水神を祀ったことから始まったとする説があり、沼岸には氷川神社・中氷川神社(現中山神社)・氷川女体神社がある。
(※「氷川神社1 氷川女体神社」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000010511610&owner_id=32815602
江戸時代、それまで手付かずだった見沼の開発が始まった。
寛永6(1629)年、関東代官 伊奈忠治は、多くの新田が開発された芝川下流域(現川口市)の灌漑用水を確保するため、木曽呂村・附嶋村(現さいたま市緑区大間木八町・附島付近・川口市木曽呂付近)に長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設し水を溜めた。この灌漑用ダムを「見沼溜井」と言う。平均水深2.7m(8尺)、周囲約40km(10里)にも及ぶ溜井により下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した(「水いかり」)。
延宝3(1675)年、江戸商人 加田屋の坂東助右衛門は、一部を干拓して新田を開拓するが、この干拓により溜井の一部を綾瀬川へ流下させたために貯水能力が低下し、下流の村から新田取り潰しの訴訟が起きた。
享保3(1718)年、溜井へ復元させられた。しかし、土砂堆積で溜井の貯水能力は低下の一途をたどり、水害も頻発するようになった。
享保年間、輪王寺6代・輪王寺宮4代、公寛法親王が江戸往来の途上、膝子村で水害に悩む村民から溜井廃止を懇願され、窮状が江戸幕府へ伝わった。
享保12(1727)年、折しも享保の改革の一環として新田開発を進めていた8代吉宗は、勘定吟味役に紀州藩士 井沢弥惣兵衛を登用、見沼溜井の干拓を下命した。
享保13(1728)年、井沢は溜井に代わる水源として、見沼代用水を現行田市の利根川から約60kmにわたり開削し灌漑用水とした。その一方で、八丁堤を破り、溜井最低部に排水路を開削して芝川と結び、荒川へ放水する工事を完成させた。
見沼干拓後、加田屋など商業資本も加わった新田開発が進み、開発面積1228ha、新田面積1172haの見沼田圃が完成。それ以後、この地は肥沃な穀倉地帯となった。さらに、見沼干拓に併せて八丁堤跡に建設された見沼通船堀によって江戸を結ぶ見沼通船が開通、見沼代用水流域の川船輸送が発達した。


※宝永の大噴火――
宝永4(1707)年11月23日10時頃、富士山が噴火した。
富士山南東側に現在でもぱっかーと大きく口を開いている“宝永火口”がその噴火口である。盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。
この日より16日間にわたり、推定18億トンもの火山灰や火山礫(熔岩の破片)が噴出したと考えられている。
これより49日前に宝永地震が発生したばかりだった(関東から九州までを覆う広範囲の大地震。静岡から四国あたりが震源だと考えられ、M9の激しいものだったと想定されている。家屋倒壊と津波で2万人が死んだと言われる)。
富士山の噴火は620年ぶり。
現在の静岡県御厨地方と神奈川県足柄地方は、壊滅的な被害を受けている。
小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まった。
江戸にも細かい火山灰が降り注ぎ、2寸積もったという記録が残っている。この時、空は薄暗く、人々が咳き込んでいたという記録もある。
火山灰が0.5センチ積もっただけで稲作は出来なくなるらしい。
宝永5(1708)年、忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策最高責任者に5代綱吉より任じられた。
この時、幕府は全国に「災害復興支援のため、資金を負担せよ」と命令(法令)を下す。各々の石高につき、100石ごとに2両徴収とされた。
全国一律に資金を集める政策は、国内史上初だったようだ。50万両が集まった。
しかし、今も昔もニッポンジンは愚か。復興に充てられたのは6万両のみ。この時、幕府財政はすでに傾いていた。北御所を作った金はコレ。復興支援に回された金も、賄賂と接待がほとんどだったようだ。
忠順被害村民へ曰く、「冬のための蓄えがあるだろうから、飢えることはないだろう。女、童まで出て、少しでも砂除けが捗るようにはげめ」――幕府をあてにするな、自力で対処せよと伝えた。
復興対策本部は小田原藩領、酒匂(さかわ)に置かれた(酒匂会所)。
幕府の最優先事項は、被害地域の村民の援助ではなく、火山灰が蓄積し、川床が増し、堤防決壊の危険を帯びていた酒匂川――富士山の麓から足柄平野を抜け、相模湾に流れ込む――の砂除けと堤防修築だった。
酒匂川が氾濫すると、交通の要衝である小田原がマヒする。軍事的には西国防衛、経済的には大動脈の東海道が使えなくなる、外海からの侵攻対処などの危機が控えている。
上記金銭の利用から、十分な人員も建築資材も揃わない状態で、酒匂川の改修工事を行うこととなった。
梅雨本番前に、堤防増強はなんとか完了する。しかし、急造の堤防はいとも簡単に大雨によって決壊した。足柄平野の田畑が浸水した。ふり出しに戻る。
この折、もっとも被害の酷かった駿東郡御厨地方より、連日窮状の陳情が行われていた。そこで忠順は、酒匂川を部下へ任せ、現地へ視察に訪れた。そこで忠順が見たものは――前述した通り、実際幕府から御厨・足柄地方へは一切の支援が行われていなかった。59もの村が“亡所”とされ、放棄され、飢餓状態に陥っていた――、降り積もった火山礫が3m近くにおよび、家々が屋根を見せるばかりの荒廃地だった。田畑を耕すこともできず、食料も底をつき、また食料を買うお金もなく、餓死者が続出していた。
忠順はただちに江戸へ駆け、勘定奉行(当時 荻原重秀)に資金増額を求めたが、即刻却下された。酒匂川の河川工事もあわせ、復興への取り組みは資金不足によって立ち行かなくさせた。堪忍袋の緒が切れた忠順は(私見-_-;)、独断で駿府国紺屋町にある幕府の御米蔵を開き、13000石の米を被災した村へ分配したのである。
(この頃、太平洋側各国の宝永地震からの復興が成ろうとしてきていた。)
宝永6(1709)年、御厨・足柄地方の被災者たちを雇い入れ、酒匂川復興事業に携わらせる。
田畑もこの年にいたってようやく再開の糸口をつかんだ。空き地や一部の田畑へ運搬してどかしていた火山礫の山が限界を迎えていた。そこで、“天地返し”という、古くからある土壌の掘り返しが発案される。これによって火山灰を底に、元の土を“地上”へ戻すことによって、農耕がふたたび行えるようになった。
次に、幕府財政にかかわる役人・奉行へ直訴行脚を行った。これにより、しばらくのちに改修工事に資金が増額され、また御厨・足柄地方の火山礫撤去にも費用が出されることとなった。
正徳2(1712)年2月29日(新暦4月4日)、御米蔵の無断開放を咎められ罷免。切腹を命ぜられ、歿す。
慶応3(1867)年、忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲んで祠を建てた。のち、須走村(現 静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社が建立される。神仏に等しく尊崇された。境内に忠順の像も立つ。



●伊奈半左衛門――
熊蔵、半蔵、半十郎ほか。
関東郡代を世襲。
1、忠次、従五位下・備前守(関東代官頭。代官任期1590年~1610年)
2、忠政、右馬助、従五位下・筑後守(関東代官頭1610年~1618年)
3、忠勝、夭折
無嗣改易(大名家としては)。

4、忠隆、忠政次男(←嫡流歴代)。旗本・小普請組・1186石(小室郷)。忠隆系伊奈家。名跡継承許可。

・関東郡代 伊奈家(旗本)――
忠治系伊奈家。伊奈宗家。正しくは関東代官(↑私称。伊奈家改易後、その役職名が「関東郡代」となったと考えられている)。
3、忠治、忠政次男(←歴代代官1618年~1653年)
4、忠克、忠治嫡男(1653年~1665年)
5、忠常、忠克嫡男(1666年~1680年)
6、忠篤、忠常嫡男(飛騨郡代兼務1680年~1697年)
7、忠順(ただのぶ)、忠常次男。贈従五位下(1697年~1712年)
8、忠逵(ただみち)、忠隆系3代 貞永次男、忠順養嗣子(勘定吟味役兼務1712年~1750年)
9、忠辰(ただとき)、忠順嫡男(1750年~1754年)
※天領27万石、開発新田2万石、役料1割。その他家禄4000石、家臣400人(実質大名)。

10、忠宥(ただおき)、忠逵次男。従五位下・備前守(勘定奉行兼務1754年~1769年)
11、忠敬(ただひろ)、柳沢吉里6男、忠宥養嗣子。(1769年~1778年)
12、忠尊(ただたか)、板倉勝澄11男、忠敬娘婿。摂津守、右近将監(1778年~1792年)
勤務中の不行跡・家中不取締(跡目争い)により、所領没収・永蟄居・改易。

―、忠善、忠敬3男。忠尊養嗣子。
―、岩之丞、忠尊長子。

11、忠盈(ただみつ)、忠治3男 忠重子孫(←忠治系伊奈家歴代)。旗本・小普請組・1000石(武蔵国秩父郡および常陸国信太郡内)で名跡継承許可。

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